映画 | ぼくとアールと彼女のさよなら

原題:Me and Earl and the Dying Girl
製作国:アメリカ
製作年:2015年
他人と深く関わることを避け、世の中を冷めた視点で俯瞰する冴えない高校生グレッグは、仕事仲間であるアールとくだらないパロディ映画を作る毎日を送っていた。そんなある日、疎遠になっていた幼なじみのレイチェルが白血病になったことを知らされ、母親に命じられ気乗りしないまま、グレッグはレイチェルの話し相手を務めることとなる…。

↓↓以下ネタバレが含まれている場合がありますのでご注意ください。↓↓
自分は涙腺がめっぽう弱く、映画を観て泣くというのはしょっちゅうなのですが、この映画ではそんなレベルをはるかに超えて、顔が引きつるくらい泣いてしまいました。いやぁ、もの凄い映画だった。

ストーリー展開はとてもポップで、(良い意味で)おふざけ感満載で、妙に冷めた視点の主人公グレッグの脱力系モノローグと相まって、特に序盤はよくある“難病モノ”の物語の雰囲気を微感も感じさせないつくりになっていたのが面白かった。
セリフもやたら多いし、音楽もガチャガチャうるさくて、普段であればあまり乗れないタイプの映画だったかもしれませんが、レイチェルの病状が悪化してゆくにしたがっての緩急もしっかりあって、不思議と引き付けられるものがありました。

ただこの映画、何が凄いって、もうとにかくラストのレイチェルの今際の際のシーンですよね。このシーンが本当に凄すぎた。これに尽きる。
グレッグの作った映画を網膜に焼き付けるかのように目を大きく見開いて最期の最期まで一心に凝視し続けるレイチェルの鬼気迫る表情に心臓をえぐられるような圧迫感と衝撃を受けました。
レイチェルのあの最期の表情には、この物語のすべてが収束していたように思うし、レイチェルの“生”に対する想いのすべてが凝縮されていたように思う。言葉にするとちょっとピンとこない感じがしますが、とにかくあのシーンでは、恥ずかしながら声が漏れ出てしまうくらい泣いてしまった。
さて、グレッグがレイチェルのために作ったあの映画は一体何を表現していたんでしょうか。
とても抽象的な内容で、グレッグがあの映画に込めたメッセージがどのようなものであったのか明確には読み取ることができませんが、レイチェルに映画を見せる直前にグレッグ本人が「この映画は君に言いたかったこととはちょっと違う」と前置きをしているあたり、グレッグがレイチェルへ向けてなにがしかのメッセージをあの映画に込めていることだけは明確に分かりますよね。
ちなみに、グレッグのこの前置きのセリフ、ちょっとニュアンスが重要かなと思い原文を見てみたところ「It’s not exactly what I wanted to say to you.」と言っているようです。自分英語はあまり分かりませんが、どうやら「君に言いたかったこととは(厳密にいうと)ちょっと違う」というニュアンスのようです。
まぁ普通に考えれば、レイチェルのために映画を作り始めたばかりの頃、集めた同級生たちのメッセージが「必ず治るよ!」みたいなものばかりで辟易するという前フリがあったくらいなので、あの映画の意図はきっとレイチェルの気持ちを尊重するような内容、つまり“死”をある意味肯定するような内容のものだったのではないかと想像できますが、このあたり、せっかく制作者側が作品内で明言していない部分なので、ちょっとくらい自分勝手な想像をしてみても良いかな。まぁこうだったらいいなぁという個人的な希望も込めての推察ですが、グレッグはあの映画で、レイチェルやグレッグたちをを取り巻く“愛”についても表現していたのではないかと思うのです。他人に対してうまく心を開くことができず孤独だったグレッグが様々な人と出会い与えられた“愛”について、そしてレイチェルと出会い、レイチェルから与えられた格別の“愛”について表現しているように感じました。そして、それを表現することは、すなわちグレッグのレイチェルに対する“愛”を表現することに他ならないわけですね。おそらく途中から挿入される黄色がレイチェルを表しているのではないかと思うのですが、そこからもレイチェルがグレッグの中で特別な存在となっていることが分かりますし、映画のラストが黄色で埋め尽くされるというところからもレイチェルに対するグレッグの想いが伝わってくるような気がしますよね。ただ、ここで表現するグレッグのレイチェルに対する“愛”というのが、人間愛的なものとしての表現になってしまっているため、このあたりが「君に言いたかったこととは(厳密にいうと)ちょっと違う」という前置きにつながったのではないかなぁと思うわけです。ちなみに、グレッグが本当にレイチェルに言いたかったこと、本当の気持ちについては…、まぁ言葉にするだけ野暮ってもんですね。
このあたりは完全に自分の勝手な推察で、的外れもいいところだとは思いますが、一度そう思って観てみてください、そんな感じに見えてきませんか?

レイチェルの死後、彼女の部屋で一人、そこに残された様々なレイチェルの一部をグレッグが発見してゆくエピローグも秀逸でした。ここであのマッカーシー先生が言っていた言葉が俄然心に染みてきます。黙々と部屋に残ったレイチェルの面影を辿ってゆくグレッグの姿から、言葉は全くないシーンであるのに、まるでレイチェルとグレッグが会話でもしているような思いがしてまた涙が。窓に描かれた高い空まで登って行く階段のイラストは、レイチェルのグレッグへ向けたエールだったんだろうな。はぁ。

ところで、ここでちょっとこの映画のタイトルについて。
この映画、原題は「Me and Earl and the Dying Girl」となっていて、邦題は「ぼくとアールと彼女のさよなら」となっています。ちなみに、映画の脚本も務めているジェシー・アンドリューズが書いた原作小説の日本語翻訳版が今年2017年の10月に発刊される予定のようですが、そのタイトルが「ぼくとあいつと瀕死の彼女」となっています。
まぁホントどうでもいい個人的な話ではありますが、「Me and Earl and the Dying Girl」という元々のタイトルや物語の内容からして、邦題として「ぼくとアールと彼女のさよなら」や「ぼくとあいつと瀕死の彼女」というのは、どちらもちょっとしっくりこない感じがします。
結局キモは「Dying Girl」をどう日本語で表現するかってことになりますが、「彼女のさよなら」ではちょっとポップすぎていまいちあの衝撃的なラストシーンとはマッチしていない気がするし、「瀕死の彼女」ではちょっと情緒がなさすぎるかなぁという気がするし。そもそも「瀕する」という言葉は個人的にはどうも「すでに至っている」というイメージがあるんですよね。もちろん「死んでいる」という意味ではないですが「死というものがすでに存在してそこにある」というイメージ。うーんちょっと表現しづらい…。まぁ映画で言うと「レイチェルが白血病の治療をやめることを決意したあたりからラストまで」が当てはまるイメージで、生を諦めていない段階のレイチェルが含まれていない印象になってしまうんですよね。なので例えば「死にゆく少女」とか「死へ向かう少女」とかそういった表現にした方がより「避けることのできない死と真正面から向き合う少女」といったイメージになって、映画の内容ともしっくり合う気がするのですが、どんなもんでしょうか。まぁでも映画のタイトルとして「ぼくとアールと死にゆく少女」というのも、ちょっとなぁ…という感じですね。うーん、難しい。戯言失礼いたしました。

「ぼくとアールと彼女のさよなら」のスタッフ&キャスト
監督:アルフォンソ・ゴメス=レホン
原作:ジェシー・アンドリューズ
脚本:ジェシー・アンドリューズ
出演:トーマス・マン、オリビア・クック、RJ・サイラー、ニック・オファーマン、モリー・シャノン、ジョン・バーンサル、コニー・ブリットン