児童文学 | 朝の少女

原題:Morning Girl
著者:マイケル・ドリス
発行:1992年
いつも誰よりも早くに目覚め、静かで優しい朝とたわむれる少女は、みんなから“朝の少女(Morning Girl)”と呼ばれていた。それとは逆に、コウモリのように夜の星々を見下ろすのが好きだと言った少年は、父親から“星の子(Star Boy)”と名付けられた。自然豊かな島で穏やかに暮らす姉弟は、島で起こるさまざまな出来事を通して、少しづつ成長してゆく…。

はじめに

とある自然豊かな島で暮らす一つの家族の、ごくごく穏やかな日常風景がひたすら淡々と描かれている作品。
どちらかというと“物語”を読む楽しさというよりも“詩”を読む楽しさのある作品といった印象で、心地よい柔らかさのある表現や言い回しが何とも独特な世界観を作っていて、そういった部分を楽しむつもりで読んだ方が、より作品の世界に入り込めて良いかもしれません。
賛否両論のエピローグについては確かにちょっと衝撃的ではありますが、そもそもこの物語の根幹を成す部分だと思いますので、あまりに残酷だからと目をつむってしまうのではなく、むしろしっかり噛みしめるべき部分であろうと感じました。

子供に勧めるにあたって

エンタメ的な面白さのある作品ではないので、小さい子に勧めても退屈してしまうだけかもしれませんが、内容は特に難しい部分もなく、平易な文章で分かり易く書かれているので、個人的には是非勧めてみたいと思える作品でした。
ただ、この作品はエピローグも含めて考えると、小さい子供だけではなく、中高生が読んだとしても十分に歯ごたえのある作品だとは思いますので、案外広い年代に勧められる作品なのかなとも思いました。

↓↓以下ネタバレを含む感想です。ご注意ください。↓↓

物語にみなぎる瑞々しさ

この作品を読んでまず真っ先に頭に浮かんだのは「瑞々しい」という言葉でした。
灰谷健次郎がこの作品を「感情と感性が、あらゆる存在物、そして自分と自分につながる生命に向けて、きわめて繊細にゆれ動くさまを、見事に、純粋に、描写し得た物語」と評していましたが、それを自分は「瑞々しい」と感じたということのようです。
何とも自身の感性の乏しさにみじめな思いがしてくる次第ではありますが、いずれにせよこの作品の感想は、もう本当にそれに尽きるといった感じです。
この作品をこれほどまでに瑞々しく感じさせているものは一体何なのでしょうか。
はじめは単純に、朝の少女と星の子の無垢な“純真さ”から生まれているものかなとも思いましたが、全部読み終わってみると、やはり二人の両親、父親と母親の存在も大きいかなと感じました。
朝の少女と星の子は、物語の冒頭では二人ともまだまだ幼く、何事も自分中心に考えがちで、いかにも子供子供した印象ですが、そんな二人に対し父親と母親は絶妙な距離感で接しつつ、頭でっかちの理屈ではなく、感性に訴えかけてゆくような方法で二人を導いてゆきます。
その父親と母親の、朝の少女と星の子に対する深い想いというか、温かい愛情というか、そういったものがひしひしと感じられ、それに対して二人は打てば響く金のように素直にまっすぐ呼応して成長してゆく、というこの一家の関係性がとても心地よく、それこそがこの作品の「瑞々しさ」を生み出している部分なんだろうと感じました。

朝の少女の成長

朝の少女は現代社会で言うと中学生くらいのイメージでしょうか。
少しづつ幼さが抜けてくるころで、ちょっと背伸びしがちだけど、まだまだ子供といった感じの年ごろですね。
彼女のエピソードで印象深かったのは、自分とは相いれない人間だと思っていた弟・星の子に対しての考え方、関わり方の成長でしょうか。
要は、自身の価値観とは異なる価値観を持った人間に対して、どのように接してゆくのかということですが、理解したり受け入れたりすることはなかなか難しくても、認めるということは本当に大事なことなのだと、彼女の成長を目の当たりにしてあらためて思わされました。
初めのころ朝の少女は、受け入れがたい価値観を持つ星の子のことを疎み遠ざけようとしますが、様々な出来事を通して、姉としてなのか、それとももっと深い人間的な部分でなのか、自分よりも幼い星の子のことを見守り導く立場であることを自覚し、相いれないその価値観も含めて星の子を自分の弟として、人間として認められるようになってゆきます。
もちろん一朝一夕で完璧になれるわけもなく、物語のラストでも「姉さんらしくないことをしてしまった」と反省する姿を見せますが、むしろそこにこそ彼女の成長が見て取れて、何とも感慨深いものがありました。

星の子の成長

星の子は現代社会で言うと小学校中学年くらいのイメージでしょうか。
ませたところもなく、まだまだ幼さ全開の子供らしい子供といった感じです。
星の子は、作中では朝の少女のように目に見えて分かり易い成長はしていませんが、それでも確かに成長していますね。
彼はまだまだ幼く、考え方も完全に自分本位で、まるで自分自身の意思と力だけで生きているかのように我儘にふるまっていますが、当然周りの様々な人たちに守られて生きているわけです。実際作中でも色々な出来事が起きますが、常に星の子は誰かに守られています。
そして、それは物語の最後までそのまま変わりませんが、そのように自分が誰かに守られて生きているということに気づき、感謝できるようになってゆくということが、彼の成長なのかなと思いました。
朝の少女のことを“いつもそばにいてくれるひと(The One Who Stands Besides)”と呼ぶようになるくだりに、それがとても良く表れているような気がしました。

島への来訪者

この作品のエピローグには、かのクリストファー・コロンブスが1492年10月11日に新大陸を発見し、最初の島に上陸した際の状況を書き残した手記が記載されています。
言ってみればただそれだけで、直接的に何が起きたかを書いているわけではありませんが、物語のラストで朝の少女たちの島を訪れた人間たちがコロンブスの一行であることを示唆しており、となればその後行われるであろうコロンブスたちによる略奪・迫害行為までが容易に想像ができるというわけですね。
この残酷な物語の締め方についてはやはり賛否両論となっているようで、灰谷健次郎も「自然の中で平和に暮らす少年少女の物語は、最後の最後のページで、読者にほとんど奈落の底に突き落とすような衝撃を与えて終わる。」と言っています。
しかし、これは本当にそうなのでしょうか。
著者であるマイケル・ドリスはアメリカ先住民(インディアン)の血を引いており、またアメリカ先住民族研究者でもあったというところから考えると、この物語は「最後の最後で読者を奈落に突き落とす」ことを狙って書かれたものではないような気がしてきます。
むしろ、コロンブスら文明人たちが、自然と共に生きていた純粋な人間たちを蹂躙し奪い去ってしまった“尊いもの”に対する慈しみや憧憬のようなものから、この物語が生まれてきているように思えてなりません。
つまり「最後の最後で読者を奈落に突き落とす」という発想とはまったくの真逆で、この物語の原点は「人間が歴史の中で失った尊いものの再現」なのではないかと思うわけです。
そう考えてこの物語を読んでゆくと、著者マイケル・ドリスがこの作品に込めた“想い”が多少なりとも見えてくるような気がしますが、いかがでしょうか。