映画 | リリーのすべて

原題:THE DANISH GIRL
製作国:イギリス、アメリカ、ドイツ、デンマーク、ベルギー
製作年:2015年
風景画家のアイナーは、肖像画家である妻ゲルダの頼みで女性モデルの代役を務めたことをきっかけに、これまで押し殺してきた自身の本来の性を解放し、“リリー”という女性として過ごす時間に本当の自分を見出すようになってゆく。一方ゲルダは、アイナーとの関係性の変化に戸惑い葛藤しつつも、“リリー”を捨て去りきれない新たな感情が自身の中に芽生え始めていることに気が付く…。

↓↓以下ネタバレが含まれている場合がありますのでご注意ください。↓↓
ええと、これはゲルダが主役の物語ってことでいいのかな?
自身の中の本来の性に気づき、女性へと生まれ変わって行くアイナー(リリー)と、それを支えた妻ゲルダの半生を描いた映画、ということになりますが、まぁアイナー(リリー)の心情はけっこう単純で分かりやすいものでしたが、ゲルダの心情はあまりに複雑すぎて、これは演じる方も大変だっただろうなぁ。

この映画を観た多くの人がおそらくアイナー(リリー)よりもゲルダに感情移入して観ることになるでしょうし、作品内でも早い段階ですでに答えを出していて明確な目標に向かって突き進むアイナーとは対照的に、ゲルダは最後まで葛藤し苦悩し続けていて、その姿の描写こそが、そもそもこの作品の深みになっているわけですね。
ただ、夫アイナーがリリーという女性に生まれ変わって行く過程で、ゲルダの感情がどのように変化していったのかについては、本当にざっくりとしか描かれていなくて想像するしかない状況ですが、少なくとも映画の売り文句である「妻はすべてを受け入れた」っていうのはちょっと違うと思うんですよね。ゲルダの心情は最後まで“受け入れた”とか“理解した”とかではなく、“受け入れられない”し“理解できない”けど、新たな価値観を見出すことができた、といった感じなのではないかという気がしました。
このへんは完全に自分勝手な解釈になってしまいますが、ゲルダが見出した新たな価値観って、“誰かを守る自分”というものなんじゃないだろうか。
1926年という時代も時代ですし、やはり「男性は女性を守り、女性は男性に守られるもの」という意識が当然であったかと思いますが、夫アイナーが徐々に女性になっていくにつれて、今までは守られる立場だったはずのゲルダの立ち位置が、徐々にリリーを守る立場に変わっていって、その変化に戸惑いつつも、そこに新たな自分を見出していったんじゃないかなぁとか思うんですよね。母性のようでもあるけど、それとはまた毛色が違うような。どうなんだろう。んー、歯がゆい。

ところで、リリーの行動言動が終始利己的に見えて感情移入ができなかったというレビューをネットでよく目にしましたが、自分はというと、その点は意外に大丈夫でした。
まぁああいった行動言動が利己的かどうかって、性の不一致を正常に戻すということがどういうことかを理解できる人にしか判断できないものだろうと思いますし、かく言う自分も理解できない立場の人間ですが、理解できないということを理解したうえで映画を鑑賞しましたので、そもそもそういう視点にならなかったのかなぁと思います。

それにしても、この映画のラスト、すごく綺麗な終わり方で普通に感動的で良かったとは思いますが、これ、リリーが死んで終わりという形しかなかったのかな。
監督がトランスジェンダーの方の気持ちにどの程度寄り添ってこの映画を作っているのかは分かりませんが、映画の最後は本来の自分として過ごす生き生きとした“笑顏”のリリーで締めくくっても良かったんじゃないかなぁ。確かにフィクションとはいえ史実をもとにした物語ですし、実際に手術の影響で長く生きられなかったというのも事実のようなので、リリーの死までを描くのも当然と言えば当然かもしれませんが、そのあたりエンディングのテロップで流すとかでも十分でしょうし。監督としては映画を美しい悲劇として終わらせたかったのだろうし、やはり死んで終わりというのは物語の締めくくりとしては鉄板の締め方でもあるのだろうけど、それにしても何ともリリーが不憫すぎてなぁ…。
そんな感じで、ラストシーンはほんの少しだけ気持ちが乗り切らなかった自分ですが、そんな自分がこの映画で一番好きだったシーンは、リリーがパリからデンマークに戻って女性として百貨店で働くシーンでした。そのシーンでのリリーは本当に生き生きとしていて、特に悲しいシーンでもないのに涙が出ました。

「リリーのすべて」のスタッフ&キャスト
監督:トム・フーパー
原作:デヴィッド・エバーショフ
脚本:ルシンダ・コクソン
出演:エディ・レッドメイン、アリシア・ヴィキャンデル、セバスチャン・コッホ、マティアス・スーナールツ、ベン・ウィショー、アンバー・ハード、エイドリアン・シラー