児童文学 | 水の国を見た少年

原題:Sees Behind Trees
著者:マイケル・ドリス
発行:1996年
生まれつき視力の弱いクルミ(Walnut)は、どれだけ練習をしても弓矢を的に当てることができないでいた。そんなクルミに、母親は弓矢を置かせ、“目”ではなく“耳”で見ることを教えた。試験をパスし、木陰を見る(Sees behind trees)という大人としての名を与えられ、その優れた聴力と推察力により村中から一目置かれるようになった少年は、村の長老である灰色の火(Gray fire)に見初められ、共に「水の国」を求めて旅に出ることとなる…。

はじめに

これはすごい。
児童文学としてかなり完成度の高い作品なのではないでしょうか。
主人公クルミ(シーズ・ビハインド・ツリーズ)の心情の機微をしっかり描きつつ、ハラハラドキドキの冒険譚としても純粋に楽しめる内容となっていますし、音や色彩が伝わってくるかのような情緒ある文章で表現される美しい世界観は読んでいてとても心地よかった。
短い中によくぞこれだけのものをバランスよく詰め込んだものだと感心しました。
また、今作は前2作と違って、人間の“負”の部分にも少しですが焦点が当たっており、なんというか「心地良い」だけで終わらないないほろ苦さが、この作品にほんの少し深みを与えているような気がしました。

子供に勧めるにあたって

これは文句なくお勧めしたい作品です。
児童文学としての体裁はしっかりありつつ、さらに水の国を目指して旅立った後の展開は冒険譚としても良くできていて、先へ先へと読ませる面白さもある作品となっているので退屈せずに読め、とても有意義な読書体験になるかと思います。
また、訳者の方があとがきで書いておられましたが、今作は視力の弱い少年の視点で物語が展開してゆくため、同じ境遇の人はより一層共感でき、そうでない人でも新たな価値観に触れる良い機会になるのではないかと思いました。

↓↓以下ネタバレを含む感想です。ご注意ください。↓↓

特別な力

主人公のクルミ(木陰を見る)は視力が人より弱い代わりに、その優れた聴力と推察力で、無くなった小さな針を見つけ出したり、遠くの森の中にいる人物を言い当てたりと、誰にも真似のできないような、ある意味超能力のような力を持って、村中の人達から一目置かれる存在になります。
当然クルミ(木陰を見る)の中には優越感による驕りの感情が芽生えてくるわけで、きっとこの時、クルミ(木陰を見る)はとても視野が狭くなっていて、無意識に自分のことを一人前だと思い違いをしてしまっていた状態だったんでしょう。
ただ、周りの大人たちはそんなクルミ(木の陰を見る)をちゃんと見抜いていて、大人になるということはそういうことではないということをちゃんと教えてくれるわけですね。
誤った方向へ進もうとしていたクルミ(木陰を見る)に間違っていることを伝えた鹿をもたらす(Brings the deer)や、混乱するクルミの気持ちを優しくフラットに戻してくれた父親のクルミ(木の陰を見る)に対する接し方は、決して答えそのものをズバリと教えるような形ではなく、あくまで道を示すのみにとどまる働きかけになっていて、そんなところから彼らのクルミ(木陰を見る)に対する想いの深さが見えてくるようで、とても暖かい気持ちになりました。

ひとりぼっちの距離

大人になるということはどういうことなのか、自問自答を繰り返すクルミ(木陰を見る)が友達のカエル(三度めの正直)と話をしていた時、一人ぼっちになるのが嫌いだというクルミ(木陰を見る)に対して、カエル(三度めの正直)が言ったセリフが何とも印象的でした。
視力の弱いクルミ(木陰を見る)は、見える範囲(一人用の空間)がとても狭く、それより外のものは無いも同然となるため、人よりも早く一人ぼっちになるけど、目が見える自分は投げた石が届くところまで見えるし、そこに行くまでに必ず誰かがいる、だから一人ぼっちにならない、と言っています。
これ、面白いと言ったら不謹慎なのかもしれませんが、本当に興味深い考え方だなと感心しました。
自分自身、視力は人並みで何不自由なく暮らせていますし、目が見えない人の感覚がどのようなものなのか想像もつかないものだったので、この考え方というか、感覚の表現についてはちょっとした衝撃でした。

水の国への冒険

クルミ(木陰を見る)がグレイファイア(灰色の火)と共に旅立ってから水の国を発見するまでのくだりは、とても心地良い冒険譚となっています。
このパートは本当にドラマチックな展開で、純粋に物語として楽しめる部分でもありますし、この冒険を通して、色々なことを学んでクルミは大きく成長します。
ただ、この部分を主人公クルミの成長という点から考えると、前2作と比較して大幅に毛色が変わっている印象を受けました。
旅立ちの前のクルミは、自分自身の特殊能力でどれだけ人に崇められたとしても、結局自分は自分であり、大人になったという実感などわかず、その境界線も分からず悩んでいます。
そんな思いを抱いたまま旅立ったわけですが、結局この旅を通して得たものは、旅立ちの前の自身の疑問に対する答えではなく、大人になった(なりきれたとは言いませんが)自分自身ということです。
つまり、水の国への冒険は、クルミ(木陰を見る)に考えて納得する隙を与えず、強制的にクルミ(木陰を見る)を大人にしてしまったということですね。
これについては、作者があえてやりたかったことなのかどうか、ただ純粋にドラマチックな物語が書きたかっただけなのかは分かりませんが、明らかに前2作とは違っていて興味深い点でした。

大人になるということ

あと、今作でもう一つ気になった前2作との違いとして、人間の負の部分を少し描いているところでしょうか。
昔見た水の国に心奪われ、執着し、最後には現実世界を捨て去ってこの世から消えてしまったグレイファイア(灰色の火)。
人の心を私物化し、操れると傲慢にも思い込んでいた族長。
前2作とは明らかに違う、苦みのある部分ではありますが、一般に“立派な大人”と言われていた二人のそういった姿は、クルミ(木陰を見る)の初期の悩みにある一つの答えを見せているような気がします。
それによってクルミ(木陰を見る)がどういった結論を自分の中で導き出したのかは作中では明かされていませんが、少なくとも “高潔で完璧な人間になる”ということが“大人になる”ということではないという一つの方向を示しているような気がします。